3.11の振り返り
今日は3月11日。震災からもう5年も経っているのですね。
2011年3月11日は、東京の自宅におりました。
独身かつフリーランスの仕事をしていたので、不規則な生活を送っていたため、
お昼の2時46分(東日本大地震がおこった時刻)は、遅起きをし、お風呂に入って出た直後でした。
素っ裸で 大きな長い揺れを感じ、動揺しましたが、まずはじめに思い浮かんだことは
「この家にある一番壊れやすく高価なものはテレビ!テレビが落ちないように抑えよう」ということと、「靴下をはこう!!」でした。
「地震でガラスが割れて 足を怪我する」と聞いたことがあり、テレビを抑えながら なぜかまずは靴下を履きました。
「裸に靴下」の姿でテレビを抑え、第一弾の揺れをしのぎました。
東京は震度5強だったのですが、地震の真っ最中は震度がいくつなのかわかりません。
震源地がどこなのかもわからず、建物がどのくらいの揺れまで耐えれるのかも検討もつかなかったので
コンクリートの賃貸アパートでしたが「メキメキ」音を鳴らして揺れているのを見ながら、
ドアがゆがんで脱出できなくならないように玄関に靴をはさみました。
建物の中にいるのが安全なのか、外の方が安全なのかわからず 心底ドキドキしました。
情報が入ってくるまでの数分がとても長く感じました。
逃げなければならない地震なのかどうかもわからなかったのです。
そして、たとえ逃げなければならない地震だったとしても 地理(海や川がどっちだ、とか 海抜の話)に詳しくないため
どこに逃げたらいいのかわかりませんでした。(どこかに避難しようと思い、はじめて大きな公園がどこにあるのか調べました)
東京で地震が起きた場合、火事が猛威をふるうと思うのですが、街全体が火の海になった時 、
上空で見ていない限り安全な場所なんてわかりません。
逃げる場所なんて きっと運次第、直感次第なのかもしれません。
とりあえず揺れが収まった後、大急ぎで服をきて、
いまのが余震の可能性も十分あるので さらに大きい地震がくる可能性も考えると 大急ぎで緊急荷造りをしました。(貴重品などをまとめる)
玄関をあけて外をみていたら、マンションの上の階から一人大学生の女の子が降りてきたので
一人で心細かったので一緒に避難することにしました。
徒歩10分ほどの距離に大きめの公園があることがわかり、二人で余震に怯えながら 歩き出した時に、第二波の大きめの揺れを感じました。
信号機や看板をみると びょんびょんと大きく横に触れているのをみて、建物の密集している都会では外の方が危ないな、、と思いつつ
急足で公園に向かいました。
たわいもない話や大学生の恋愛事情などを聞きながら2時間ほど過ごしました。
彼の安否確認がとれたのは夕方5時頃。電波が混雑するのか震災当日は全然電話がつながりませんでした。
田舎の実家に無事を報告できたのは翌日でした。
(なんども試みるのですがかけれない。県内より県外の方が繋がらなかったように思います。)
彼は地震の時間、社員全員で本棚を抑えていたらしいです。 笑
避難訓練やマニュアルでは 「避難する」だったようですが、実際 大地震が起きたら (東京の)集団心理で「(自分だけ)逃げる」選択肢は選択しずらいのだろうなと思いました。
逃げる人や防御する人があまりいないので、「空気を読んで」自衛できない雰囲気が漂うのだと思います。
夜は余震に怯えながら、 彼(今の旦那)の帰りを自宅で待っていました。
夜の12時を過ぎても 彼は一向に帰ってこない。
「帰宅難民」というのが話題になりましたが、彼は会社から徒歩圏内に住んでいるため帰宅難民ではなかったので、なんで帰ってこないのか心配になり電話をしたところ、
「「帰宅難民」の人がいるから帰りずらい。一緒に会社でみんなで過ごすことになった」といって帰ってこず、
「一人で過ごしている私はどうでもいいのか」と腹がたちつつも 笑
余震に怯えながら一人で長い夜を過ごしました。
3月11日以降のコンビニやスーパーはどこにいっても食品がなく、空っぽでびっくりしました。
貧乏であまりストックをしない私は食料がなく 本当に食事に困りました。(昔母が送ってくれたカップラーメン※すでに賞味期限3年切れなどを食べて過ごしました 笑)
原発の問題もあり、どうにか食料を確保し 目張りして自宅に引きこもろうと思っていた矢先に取引先から打ち合わせの連絡が入り
福島の原発事故があった日の翌日、3月16日、、お昼に渋谷で打ち合わせが入っていたので 渋谷駅で下車しました。
いつも人でごったがえしている渋谷の駅が閑散としており人がまばらしかおらず、歩いている人もスーツケースを持って急いで駅に向かっている雰囲気でした。(お昼3時ということもあり サラリーマンもあまりいなかった)
空気がピリピリしており「なんか本当に異常事態なんだな。生きている間にこんな町の光景をみるなんて」と思いながら プルームをきにしつつ 打ち合わせに向かいました。
フリーランスのデザイナーなので、震災によっていろんな仕事が中断しペンディングになり、流れに流れ、
原発の不安もあり、3月21日にいったん地元に帰省し、5月に改めて地元に引っ越ししました。
原発事故後はいろんな情報が氾濫し、風評だとか風評被害だとか 何を信じていいのかわからないような状態でしたが
「一番最悪な事態」を想定し、神経質だと馬鹿にされたっていいから「命を優先しよう」と思いました。
数年後なにもなかったら「杞憂だったね」と笑いとばせばいいのだから。
同じ地元だった彼に帰省を説得したものの、彼は「仕事があるから。
辞めるなんてそんな無責任なことはできない」と東京に残り遠距離恋愛の日々が1年半ほど続きました。
帰省後、2011年 夏には被災地である宮城県の名取市や亘理町にパスタの炊き出しにいき、そこで友人ができました。
津波が到達した地域と していない地域の復興度合いが全然異なり 驚きました。
津波のきていない地域は 活気があり、震災があったのが嘘のように建物も綺麗でした。
日本の建築ってすごいなぁと感心しました。(震度7では屋内待機が安全そうですね!)
友人に津波の被害にあった地域と自宅(があった場所)を見せてもらったり、生の声をたくさん聞くことができました。
また、復興をがんばっている地元の方と出会い、お話や活動を聞き 参加させてもらいました。
命、防災、仕事、自然の脅威、都会の希薄さ、集団心理の怖さ、無知の怖さ、サバイバル能力の大切さ、、いろんな意味で価値観が変わった3.11。
田舎に帰省して、時間の流れが ゆっくりで、なんだか肩の力が抜けました。
「あ、、東京って みんな生き急いでるなぁ、、。命の大切さよりも 集団や組織を重んじてしまう町だなぁ」
そんなことを思い、大好きな東京を離れる大きなきっかけでもありました。
憧れて 一世一代の夢をかけて 乗り込んでいった東京。
貧乏ながら懸命に生きた東京。
大好きで大好きで愛してやまなかった 東京。
楽しくて 刺激的で 愛して止まなかった東京。
しかし、命よりも大事なものはないのです。
命よりも 仕事や組織を選ばないと 生きていきづらい、、という矛盾を抱えた町。東京。
いまは 東京を離れたことを まったく後悔していません。
とりあえず、防災用具を今一度点検し、今いる土地のハザードマップや防災的な地理を把握しようと思い
チェックしている今日この頃です。
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